今回ご登場いただいたのは、水と緑に囲まれた東京都江戸川区在住のS・A様です。S・A様は、両親とも公立学校の先生という教育者一家の三女(4人姉妹)として誕生され、教育者特有の厳格な躾と下町ならではの優しさに包まれ、スポーツ好きの女性として成長されました。
美容師免許取得後、遠藤波津子美容室(1905年創業の我が国を代表する美容室)で美容技術者として社会人生活をスタートして以来、SKD(松竹歌劇団/当時)〜東京ヒルトンホテル(千代田区永田町/当時)〜ホテルオークラ東京(港区虎ノ門)内ドラッグストアー(子安ドラッグストアー)を退職されるまでの45年間の長きにわたって対面接客業務一筋に従事されました。ヘアースタイリスト、ネイリスト、セールスレディと職種は変わっても、お客様とのコミュニケーションをベースにサービスを提供するビジネス共通の流れを持続されてきた気骨を彷彿させる明朗闊達な女性です。60歳の定年退職は通過点でそのまま再就職されたので、65歳が実質退職だったそうです。65歳で退職後は、健康管理を第一に、旅行やフラワーアレンジメントなどを楽しまれています。時々は都心に繰り出し、知人や後輩とビールのグラスを傾ける時間を楽しまれています。
S・A様は、筆者(CGBS代表の高橋)が株式会社子安様とお取引をいただいた直後から面識をいただき、在職中はもちろん、退職後も折りに触れてお話しを伺う機会がありました。このインタビューの3回目を迎えるに際し、ぜひ女性に登場いただきたくS・A様にお願いしました。
ご自宅に伺ってのインタビューでしたが、ビールや美味しい料理そして2007年のボジョレー・ヌーボーまでご用意いただき、和気藹々とした雰囲気で約3時間のインタビューを無事終了しました。その際、A・S様は江戸川区民コミュニティ会館でのフラワーアレンジメント講習受講時のスクラップブックや京都旅行の写真などを提供いただきましたので、編集整理がとてもスムーズに進みました。
インタビューは、まずは「美容師として社会人生活をスタート」から始まりました。以下はS・A様のお話を要約筆記したものです。(文責:CGBS高橋)
◇美容師として社会人生活をスタート
美容師免許を取得後、遠藤波津子美容室に入社し、日本橋高島屋店(当時/現ハツコ エンドウ ビューティースタジオ)と日本橋三越店(当時)で5年間美容師として勤務しました。美容師という職業が特に好きだったという訳ではありませんでしたが、この仕事がその後の約半世紀近くに及ぶ接客サービス業のスタートになりました。
※遠藤波津子美容室
初代遠藤波津子(現代の遠藤波津子は4代目)が、1905年(明治38年)に銀座七丁目で創業した我が国を代表する美容室。日本の美容界にとって革命的なコールド・パーマの導入や世紀のご成婚といわれた1959年(昭和34年)4月の皇太子殿下と美智子様の結婚式で美智子様の美容担当という大任を果たしたことで有名。
◇両親の思い出について
両親共に公立学校の先生という、所謂教育者家庭です。父は江戸川区立中学校の校長でした。お酒が好きで、よく酔っぱらって帰宅したものです。時々は交番のお巡りさんにやっかいになったりもしましたが、当時の風潮は、学校の先生が酔っぱらって町を闊歩していても誰も咎めたりしなかったので、酔っぱらいには天国だったでしょう。母はそんな父を非難することもなく、黙って世話をしていたことを憶えています。教育者らしく4人の娘(S・A様は4人姉妹の三女)の躾は厳しかったですが、優しく見守ってくれて感謝しています。
◇両親の介護と仕事の両立について
ホテルオークラの子安ドラッグストアーに勤務していた当時、3人の姉妹は既に嫁いで家を出ており、一人で両親と暮らしていました。父は退職後、8年間ほど痴呆症を患い、夜中にも徘徊するようになりました。母はリューマチを患って歩行が困難となり、リューマチの後遺症で心臓にペースメーカーを埋め込んでいました。
当時勤務していたホテルオークラ内の子安ドラッグストアーはホテルのお店ですから、年中無休で早朝から夜間まで営業しています。それで、両親の介護と仕事の両立はとても負担でしたが、当時はお店の売り上げも好調で、勤務ローテーションの調整にも上司や同僚の協力があって、仕事のやりくりはできました。
ただ、介護保険もない時代のことで、度々夜中に出歩き、ずぶ濡れになって戻ってくる痴呆症の父を見ていると、腹立ち紛れに冷淡なことを想ったりしました。しかし、二人の世話ができるのは自分しかいないとの一念で、とにかく二人の介護に勤めましたが、どうにもやりくりがつかなくなり、父を介護施設に入居させました。このことが今でも心残りです。どうして父を自宅で介護することができなかったのか、安易に施設に入れたのではなかっただろうかと命日を迎える度に悔悟の念に囚われます。母はずっと自宅で介護しました。父は1993年(平成5年)1月に亡くなりました。そして後を追うように母も父の死後1ヶ月を待たずに亡くなりました。
両親の介護は誰にでもおとずれる可能性があります。現在介護制度や介護施設は充実してきましたが、私の体験を通して思うことは、肉親の介護がなによりも大切なことだということです。予測できないことだけに、事前の準備も難しいことですが、両親の介護を避けられない事実として受けとめる心の準備をしていただくようお勧めしたいと思います。
◇対面接客業務について
ヘアースタイリストやネイリストをしていた当時も対面接客の仕事でしたが、毎日接するお客様の数は少ないものでした。それに比べて子安ドラッグストアーホテルオークラ店では毎日とても多くのお客様と接しました。ただし、お客様との接客密度とか、親密度は相当違いました。この対面接客業務を通じて得たお客様の知遇はとてもありがたいものがあります。例えば、東京ヒルトンホテル(千代田区永田町/当時)でネイリストとして接していた当時、政治家や著名なお客様に知遇を得ることができ、その後子安ドラッグストアーホテルオークラ店のお客様になっていただけました。
◇対面接客業務で心がけて欲しいこと
私のように毎日対面接客をしていますと、いろいろなことが分かるようになります。これまでの経験で気づいたことを思いつくままに紹介します。何かの参考になれば幸いです。
1.買い物の仕方を見ていると、お客様の品性が分かるような気がします。
2.地位の高低とか、お金持ちか否かなどでお客様への接遇を差別しないように注意しましょう。
3.お客様の外見に惑わされないように、代金を支払っていただければどなたでもお客様です。
4.お客様のクレームは最優先して対応することが解決のポイントです。
・クレームは最優先で早く処理
・真心を込めた対応
・逃げないで自分で処理(管理者の場合)
・速やかに上司に報告して指示を仰ぐ(スタッフの場合)
→私の経験ですが、逃げないで自分でクレーム処理を心がけた結果、約30年間、ホテルオークラにも株式会社子安の本部にも迷惑をかけたことはありません。また、「さすが、オークラの薬屋」だと、クレームをいただいたお客様からとても褒められたことがあります。クレームをきちんと処理すれば、そのお客様はお店の顧客にもなって下さいます。
5.接客教育は現場に任せるのが一番です。率先垂範でやってみせる(OJT)のが効果的です。
6.接客業務スタッフは鈍感なのはダメです。気配りと誠実さが大切です。
7.お客様について気づいたことはメモをとっておくと、再来店された際に役立ちます。
8.接客下手なスタッフにも叱るばかりでなく優しく手を差しのべ、お店全体を盛り上げることが必要だと退職後に気づきました。
9.仕事を円滑に進め成果につなげるには、的確な社内のコミュニケーションが必要です。
→ホテルオークでは、毎朝メールでその日のVIPの来館情報、お客様の情報、注意情報を各部門に通知しています。この連絡に沿って各部門がその日の対処方法を立てるますので、ホテルのホスピタリティの維持に役立っています。これはとてもよいコミュニケーション方法だと思います。
10.最後に一つ、お客様が何を買って下さったかを覚えておくことです。
◇パソコンの出会いから現在まで
子安ドラッグストアーホテルオークラ店時代に、当時の会社トップから「これからパソコンの時代だ」と言われて勉強を始めました。たしかNECのPC98シリーズだったと思いますが、1993年(平成5年)頃に会社主催でPCの講習会があり、それに参加したのがパソコンとの正式な出会いです。本格的にパソコンに取り組んだのは50歳代半ば(55〜56歳頃)で、同時にデジカメも始めました。
パソコンは画像編集が面白くて、なかでも年賀状ソフトの筆グルメで写真入りの年賀状作成が得意です。仕事に役立ったのはEXCELです。それまで毎日手書きで処理していたお店の売上日計表作成が手軽にできてとても重宝でした。定年後もインターネットやメールをはじめ、楽しく利用できる道具として役立っています。メールを通じて今も会社の人たち(株式会社子安の皆さん)とのコミュニケーションがとれています。
◇愛犬ロンの思い出について
愛犬のロンは、1993年(平成5年)2月に母が亡くなってからは私の命のような存在でした。高校時代に我が家に来て以来、足かけ17年間余一緒に暮らしました。ロンは雑種でしたが、私には時に友人であり、時には母のような存在でした。一人で仕事をしていると、悲しいこともあり、涙を流す辛い時もありましたが、私が泣くと、ロンはクーン、クーンと吠えながら涙を嘗めてくれました。だからロンが亡くなった時は、悲しみにうちひしがれて一週間も仕事を休んでしまいました。実際、ペットロストシンドロームになったようで、ロンの死後1年間以上悲しみと懐かしさの交差した思い出が心に残りました。今でもロンの写真は両親の写真と一緒にして、家を留守にする時は必ず持ち歩いています。
◇定年後の暮らしについて
思いつくままに上げてみましょう。私は長い間江戸川区に住んでいますが、地域にはあまり馴染んでいません。定年後の男の人は町内会の役員などをして、地域交流をしていますが、私はやっていません。お金儲けには、全く興味がありません。車には些かこだわりがあります。最初は両親の介護用に購入しましたが、現在はシルバーの日産CUBEにETCとカーNAVIを装備しています。お酒はビールが好きです。会社時代の仲間や友人と連絡を取り合って、ワイワイ賑やかにやるのが一番楽しい時間です。
そんな暮らしのなかで、きちんと計画的に取り組んでいるのはやはり健康管理でしょう。いくつかご紹介しましょう。
1.毎日歩くこと
・万歩計と共に毎日5km位を歩きます。江戸川の堤を柴又界隈まで余程の荒天でない限り、毎日欠かしません。
・万歩計の項目(月日、歩数、Kカロリー、グラム、KM、時etc.)を基に、毎日ノートに体重、BMI、基礎代謝、体脂肪、内臓脂肪、年年齢を記録し1ヶ月間の体の変化をチェックしています。おかげで現在の年年齢は実年齢より若いです。
2.仲間と旅行すること
・歩こう会(子安ドラッグストアーホテルオークラ店時代のテナント仲間などの集い)の仲間と、月1回ペースで旅行に出かけます。名所旧跡を訪ねて歩いたり、写真を撮ったりと、事前に計画を立てて行動することは、不規則になりがちな定年後の生活リズムを整えるのにとても効果的です。
3.フラワーアレンジメント
江戸川区民コミュニティ会館で、フラワーアレンジメントの講習を受けて始めました。TPOに合わせた花の選び方からアレンジ方法などを考えて、作品を仕上げる時間はとても集中して過ごせる一時です。出来上がった作品を写真とアレンジデッサンと一緒にスクラッピングしておいて、後から眺めるのも楽しいものです。お転婆だった学生時代の私からは想像できない一面かもしれません。
4.読書
テレビを消して静寂な時間を楽しみたい時や、比較的暇な時はフランス文学やロシア文学を読んでいます。今はトルストイの「アンナカレーニナ」に挑戦してます。
<インタビュー後記>
ビール好きのS・A様は、私たちのためにわざわざ手料理をご用意して下さいました。そして、ビールと美味しい料理をいただきながらご自宅でインタビューに応じて下さいました。長い間の対面接客の仕事についてお話しされる間に挟まれたご両親の介護のお話しに胸を打たれました。「夜中に出歩き、ずぶ濡れになって戻ってくる痴呆症の父を見ていると、腹立ち紛れに非道なことを想ったりしました。」というお話しを伺った時、我が父親を介護した当時が蘇り、深い共感を覚えました。ワイン好きの筆者のためにわざわざボジョレー・ヌーボーをご用意いただくなど、いつまでも相手に対する気遣いの心を忘れない姿勢に、頭が下がる思いです。
長時間にわたり熱心にインタビューに応じていただき、また資料をご準備いただいたS・A様に感謝申し上げるとともに、今後のご健勝を祈念申し上げます。